カタカタカタ、方舟の一室、翻訳家の樹人クロマツの部屋に、タイプ音が響く。
「添削、誤字確認、終了。どうにか月末に間に合いましたね。」
ふぅ、と息を吐き、タイプ音が止まる。
クロマツが翻訳・販売権を買い取った上で方舟に持ち込んだ全20冊の未翻訳本シリーズ、
その12冊目の翻訳が終わったのだ。

「月1冊翻訳。・・・きつくとも自ら定めた締め切りです。これも生活に張りを作るには必要な事。」
肩をボキボキと鳴らしながら回し、眉間を揉み、根を詰めた翻訳で固まった身体を解してゆく。
方舟はそれこそ何でも有る空間だが、季節の変化等の無い閉鎖空間故に時間間隔が鈍麻する恐れがあるし、個室で多くが間に合う故に、一人で閉じこもっていようと思えば出来てしまう。
その対策にクロマツが持ち込んだのが本業である翻訳家としての仕事であり、その発行が部屋の外との定期的な繋がりであった。


「さて、印刷室と、購買ですね。」
PCをそっと閉じ、脇に抱えて印刷室を目指す。
先ずは見本の作成だ。おおよその形は前巻と同じであるし、大きな問題は恐らくないとは言え、手を抜くわけには行かない。
印刷室のPCと自らのノートPCを繋ぎ、印刷イメージを最終確認。
「表紙、良し。」
シンプルな緑地の硬い表紙に黒文字の題。文字数に合わせた題文字の位置調整も問題はない。
「読み込んだファイルの間違い、無し。」
間違ったファイルを読み込み、前の巻の内容である等の単純なミスも無し。
「不揃い、無し。」
パラパラと目を通し、明らかに妙な段落空き、空白ページ等も無い事を確認。
「ええ、之で良いでしょう。では印刷開始、と。」
印刷を実行。しばし機械が唸り、完成した一冊の本が吐き出される。
そっと手に取り、パラパラと捲ると、再びクロマツは歩き始める。
「購買での登録と行きましょうか。・・・前巻迄の購読数確認もしないと。」
期待を不安を抱え、購買へ。

「今晩はクロマツさん。毎月ご苦労様ですわ。」
購買の店員さんが声をかけてくる。ノートPCと見本本を抱えてくるのは毎月の事。一目見て登録の用だと見ぬかれたのだろう。
「ええ、今晩は店員さん。今日はこの本をお願いします。
・・・それと、先月の本の購読データをお願いできますか?」
そっと置き、改めて用を告げる。

「はーい。何時もありがとうございますね。今月のも楽しみにしてましたのよ?
データも準備してありますわ。」
登録も直ぐにしてしまいますので、データを見ながら待ってて下さいね、と手際よく登録作業を始める店員さん。
嬉しくも気恥ずかしい事に彼女も購読者の一人であり、活力の源である。
・・・先月の巻の購読者数を確認する。
「微増していますね。嬉しいことです。」
ほっとする。矢張りこの瞬間ばかりは毎月、心臓に悪い。
毎巻主人公とテーマの異なる、ある意味短編連作地味た構造の長編作品だ。
原本が面白い事には自信を持っているといえど、その巻が読者に合わないかもしれないという不安は常に有る。

「ええ!前巻も良かったですよ。
ふふ、私なんて読み返しながら、次の巻をずぅっと待ってましたもの。
それに、“定期的な”新しい本や雑誌なんて少ないんですから。クロマツさんはもっと安心して構えてらしてもよろしいのに。」
方舟は莫大な本や雑誌を積み、抱えて居るが、“新しい物”の生産は搭乗者に委ねられている。
ある意味で数少ない時間の流れの導であり、楽しみに出来る物なのだと。

「そう言ってくれると嬉しいですね。
私も、彼の作品のファンの一人ですから。」
この作品を選んだのは何より、自分が面白いと思ったからで、もっと多くに読んで欲しいと思ったからだ。
登録の打ち込みも終わり、登録処理の終了を待つ間、しばし店員さんと作品について歓談し、感想を言い合う。月に一度の、楽しい一時。
「と、登録ももう終わったようですね。今月もありがとうございました、店員さん。」
話が一段落した時には、登録処理も完了していた。
礼を言い、店の前を辞する。

「こちらこそですわ。それとクロマツさん、これをどうぞ。」
店員さんから渡されたのは小袋に入れ、リボンで封をされたクッキー。
「ありがとうございます。・・・これは店員さんが?」
商品では見たことが無い物。恐らくは手作りのココアクッキー。
「ええ。今日の本が12冊目、方舟に乗って一年の節目ですもの。
私からのお祝いですわ。」
・・・月に1冊で、12冊。当然そういう事になる。
当然でありながら気がついて居なかったことであり、嬉しい驚き。
「ありがとうございます店員さん。大切に食べさせて頂きますね。」
喜びの儘に受け取り、礼を言う。
「ええ。これからも宜しくお願いしますね。クロマツさん。」
店員さんの見送りを受け、見本本の代わりにクッキーを手に、部屋へと帰る。
行きよりも軽く、弾んだ足取りで。

「今日は良い日でした。
次の巻の翻訳も、頑張りましょう。」
ココアクッキーを一欠齧り、部屋でくつろぐ。
今日は良い日だった。
来月も、きっと良い日になるだろう。

このページへのコメント

方舟内での生活、イメージすると楽しそうですよね。
作成お疲れ様でした。

0
Posted by 安藤竜 2016年09月18日(日) 16:34:28 返信

作成お疲れ様でした!
こういった箱舟の日常も面白いですね

0
Posted by ゾディー 2016年09月18日(日) 16:23:53 返信

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