───自分がどれだけの愛情に包まれていたか、その頃はまだ分かっていなかった。



「姫ちゃんハンバーグは好きよぉ……でもね、ニンジンは大っキライ」

虹蜘蛛王家の宮殿の一室。
大きな食卓の前にぽつんと坐るのは、ただ一人の少女。
傍らに控える眼鏡をかけた給仕役のメイドに愚痴をこぼしながら、彼女は夕食を口に運んでいた。

「ニンジン嫌って言ってるのに、どうしてハンバーグにはいつもいつも付いてくるのぉ? ちゃんと料理人に伝えてくれてるのかしらぁ?」

「ええ、毎回ちゃんと伝えていますよ」

もう長いこと少女の教育係も兼ねていたメイドは何食わぬ顔で応える。

「本当? ならきっと、料理人が姫ちゃんのこと嫌いなのね……」

「いいえ。この国で姫様のことを嫌いな者など、一人とておりませんわ」

「だったら……だったら、どうしてお父様とお母様は一緒にお食事してくれないの? どうして、姫ちゃんは遠い国に行かなきゃらないの……!?」

彼女、虹蜘蛛姫は近日中に故郷を離れ、遠い国に留学することになっていた。

「きっと、お父様もお母様も姫ちゃんの事を嫌いになっちゃったんだわぁ……」

「そんなことございません。お二方はここの所、政務がお忙しいだけですわ。そして姫様のご留学の件も、他国の文化を知り、確かな学問を修めてほしいという親心あってのもの……」

「嫌! アタシ、絶対に留学なんてしないからっ!」

「姫様……!?」

好物のハンバーグも残したまま、席を立つと、虹蜘蛛姫は自室へと駆け込み、ベッドの中で泣きたて、枕を濡らす。

「うぐっ、ひくっ……うぁぁぁあん……っっ!! ぐすっ……お父様……お母様……」

やがて泣き疲れた姫は、そのまま眠り込んでしまっていた。



夜も更けて、静かに寝息を立てる姫の寝室を訪れる影が一つあった。
その人物は姫のベッドの上に腰掛け、彼女の頭を優しく撫でる。

「……だぁれ?」

温かい手のひらの感触に気づいた姫は起き上がり、暗がりの中、目をこらす。

「ごめんなさい。起こしてしまったわね」

「お母様ぁ……?」

それは、虹蜘蛛族の王妃、彼女の母親であった。
母の存在に気付いた姫は、ぷい、と顔を横に背ける。

「イトネ……私達のこと、怒っているのね?」

「……そうよぉ! 姫ちゃん、留学なんてしたくないんだからぁ……っ」

「ごめんなさい……ごめんなさい、イトネ……!」

「お母様、泣いてるの……?」

夜の闇の中で、その表情を伺うことはできない。
しかし、虹蜘蛛姫は王妃の声に涙を感じた。

「イトネ……本当は母様も、イトネを留学させたくはないわ……ずっと、イトネの側にいたい……けれど、これは仕方のないことなのよ……」

「お母様、なかないで、お母様……! お母様が悲しいと、姫ちゃんも悲しくなるわぁ……うぐっ、ひぐ……っ」

姫は上半身を起こし、母親の胸へと抱きつき、泣きじゃくる。
その震える背中を、母はつよく、つよく抱きしめた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、イトネ……留学が終われば、すぐにまた会えるわ……きっと、迎えにいくから……!!」

「うぁああん……! なかないで、なかないで母さまぁ……許すわぁ……姫ちゃん、許すからぁ……うぅ……ぐすっ……」

「本当……? 母様を、許してくれるの……?」

「ぐすん……っ、姫ちゃん、本当は嫌よぅ? お母様、お父様と離れるなんて……でも、留学は……ぐすっ、必要な、ことなんでしょう……? うぅ……仕方のない、ことなんでしょう……?」

本当は姫自身も、うすうすとは気づいていた。
留学はすでに決定事項であり、中止することはできないのだと。
そしてそれが留学という建前の、別の何かなのだと。

「イトネ……イトネ……っ!!」

「お母様ぁ……っ! うぁぁぁああああん……っ!!!」



二人は涙を流しながら抱きしめ合い、やがて姫はふたたび眠りの海へと落ちていった。

まどろみの中で、彼女は父と母の声を聞いた気がした。

「イトネは……寝てしまったか……」

「ねえ、アナタ……本当に、イトネを一人で行かせるしかないの?」

「我々は亜人族だ、それも後ろ盾を持たぬ小国の……イトネ一人を亡命させるのが、やっとだったんだ……もちろん護衛の騎士か、教育係のメイドの彼女を受け入れさせるよう、交渉は続けるつもりだが……」

「それは、難しいのね……?」

「ああ、こちらの状況も、切羽詰まっているといった所だ……そもそも交渉の席を設けること自体、難しいだろう……」

「あぁ……可哀想なイトネ……私達が、亜人族だったばかりに……」

「向こうには、昔、私が世話になった博士がいる……彼なら、きっとイトネの面倒を見てくれるはずだ……彼女は、きっと助かる……無事に、立派な姫へと成長するさ」



数日後、ついに虹蜘蛛姫が国を発つ日がおとずれる。
彼女が留学することは機密であり、見送る人数は少ない。
小型の飛行船の前に集まるのは、今から旅立つ姫君と、少数の護衛の騎士と、お付きのメイド達、そして彼女の両親の姿もそこにはあった。

「それでは、行ってまいりますわ。お父様、お母様……」

悲壮な、それでも決意を瞳に宿した面持ちで、虹蜘蛛姫は、両親に別れの挨拶を告げた。

「ああ。ちゃんと勉強して、立派な姫になるんだよ」

「えぇ、分かったわぁ。お父様」

「健康には、気をつけるのですよ。それから、お世話になる先生の言うことは、ちゃんと聞くこと。それから、それから……」

「もう、姫ちゃん大丈夫よぅ……だから安心して、お母様っ」

涙ぐむ母に向けて、精一杯の作り笑いをしようとするが、その頬は溢れる涙に濡れ、不恰好な笑顔にしかならなかった。

そんな虹蜘蛛姫に、母は思わず駆け寄り、抱きしめた。

「行ってらっしゃい……イトネ……!」

「うぅ……うわぁぁぁん……っ!!! ぐすっ……行ってきます……お母様ぁ……っ!!!!」

姫は一頻り泣いた後、王妃の腕から離れ、飛行船へと向かって歩く。
タラップの前で足を止めると振り向き、長年の付き合いになる、眼鏡の教育係のメイドへと声をかけた。

「姫ちゃん、貴女から教わることが、まだいっぱいあると思うわぁ……貴女は、付いて来てくれないかしらぁ?」

「姫様……! 申し訳ございませんが、私は……」

メイドが涙を堪えて答えるのを、王が遮る。

「なんとか、なんとか彼女も虹蜘蛛姫の留学先へ同行できるよう、交渉してみよう。だから虹蜘蛛姫は、向こうで、彼女が到着するのを待っていなさい。いつになるかは判らないが、必ず彼女を向かわせると約束しよう」

「王様……! 御厚恩に、感謝いたします……! 姫様……待っていてくださいませ。必ずやまた、お仕えにあがりますので……!」

メイドは謝意を述べ深くお辞儀をした。

「約束よぉ。姫ちゃん待ってるからぁ」



───だけど、その約束は、ついに果たされることはなかった。
そして、両親とも、それが最後の別れだった───。





木漏れ日の中、彼女は騎士の膝の上で目を覚ます。

「おはよう、姫」

騎士は目覚めた姫に眩しい微笑みを向ける。

「……ジーク。アタシ、夢を見ていたわ」

「夢を……?」

「ええ、とても幸福な夢。だけど悲しい夢」

彼女の頬を、一筋の涙が伝う。
その涙を騎士はそっと拭い、姫の髪を優しく撫でた。

「……姫。どうか泣かないでくれ」

「ジーク……貴方は、いなくなったりしないわよね……?」

「ああ、もちろんだ。ずっと一緒にいて、いついかなる時も、姫のことを守る」

「ジーク……」

虹蜘蛛姫は、ふたたび目を閉じる。
騎士ジークの愛に包まれて、その愛を感じながら。




−幕−

このページへのコメント

末永くお幸せにですよ〜♪

0
Posted by メイル 2016年09月18日(日) 14:47:41 返信

 共にいて安らげる相手を得て何よりです。
幸いな時間が永く続く様。

0
Posted by クロマツ 2016年09月18日(日) 14:33:19 返信

やだ・・・守護らなきゃ(使命感
とりあえず死ぬまで姫の傍に居よう、独りぼっちは寂しいからな。

執筆お疲れさまでした。

0
Posted by ジーク 2016年09月18日(日) 14:10:10 返信

子を思う、親の気持ちは偉大なもんだ。
そうありたいもんだな。

作成お疲れ様でした。

0
Posted by 安藤竜 2016年09月18日(日) 13:19:54 返信

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