儂が恩師と思うのは過去に一人。儂がまだ幼いころの人物だった
その頃の儂は母様に連れられて島国へ移り住んでいた
何故そんなことになっていたのかは覚えていない
覚えているのはどこかの屋敷に住んでいたということだ

その頃の母様は忙しそうで、あまり会えなかった
大抵は一人で過ごすことが多かった

一人、寂しく。部屋の外は危ないから、と言われ。…そのような日々を送っていた



ある日の事だ、誰かが来た音がした。
ここに来るのは母様だけだったから、母様が帰ってきたのだとその時の儂は思った
いの一番で駆け寄り、抱き付いたのだが…そこにいたのは、誰だかわからない人だった

人間だった。儂が初めて見た人間だった。
母様から話だけは聞いていた、が実際に触れたことは無い
人間とはどういうものなのかわからず逃げ出した覚えがある
そして大人しそうだったので近くに寄ってみればいきなり大声を出して、
何事かと思った覚えもある


これが、私の恩師との出会いであったのだ



その人は陰陽師、というものだったらしい。
正直どういう職業であったかは覚えていないが、陰陽術、というものを扱っていて
少し教えてもらったものである

…優しい人だった。寂しかった儂に、知らない外の世界を教えてくれた
妖というものを教えてもらったし、興味のそそる話もしてもらった
多くの事を教わったものだ。そのことがなければ儂は世間知らずであっただろう
いまでも、感謝しているものである



それから、上皇と呼ばれる人を含め、四人で一緒に居ることが多くなった
時には難しい話を、時には楽しい話を。
娯楽についても教えてもらった。唄、というものや碁というものも教わった

…嗚呼、とても懐かしく、良い日々だった…

しかし、ある日上皇が体調を崩したのをきっかけに、慌ただしくなった
上皇がとても苦しそうだったのは今でも覚えている
何とかしようと二人が忙しそうにしていたのも覚えている

そうして、話す機会が減ってしまって、寂しく思った
けれども、上皇に早く治ってほしいと思い、我慢することにした
それに、時々あの人も会いに来てくれたから我慢できないわけではなかった


…それからの事は、あまり思い出したくない…が、ここに書き記すことにしよう
どうせ時間はいくらでもあり、しなければならないこともなく、
ただ過ぎるのを待つだけなのだから



ある日突然、母様と二人で森にすむことになった
理由は…よくわからない。母様は話してくれなかったし、知る余地もなかったからだ
そして、母様はいつか儂と離れ離れになってしまうだろう、と言っていた
それも、近いうちに、だ。避けられないだろう、とも言っていた

儂はそれが出来るだけ遠ければ良いな、と呑気なことを考えていたものだ
もうすぐそこに迫っているなどと夢にも思わずに



ある日、気付けばどこかの部屋にいた。
そこに母様の姿は無く、代わりにあの人がいたのであった
母様が離していた別れとは、この事なのだと思った

あの人からいろいろな注意を受けた。勝手にどこかに行かないようにともいわれた
その時は返事はしたが、やはり最後に母様に一目会いたいと思った
思ってしまった。思わなければきっと、あんなことにはならなかったのだろう
その時の儂は、ただただ無知で、呑気で…



その日の夜のうちに、儂はこっそりと抜け出すことにした
ただ、勝手にどこかに行かないようにと言われていたので、
習った式神を使って伝えることにした
これなら問題は無いだろう、と馬鹿なことを考えたものだ

部屋を出ようとすると、結界が張ってあることに気づいた
あの人はこの程度の結界で十分だと考えたのだろう
しかし、その時の儂はそれくらいは簡単にすり抜けられるほどの力を持っていた
そう、不幸なことに、だ

そうして、途中であの人に見つかりながらも母様の元まで行って
行って、最後を、見て


その直後の事はあまり覚えていない
ただ、自分の奥深くからどす黒い、憎しみや恨みや悲しみや…
そんなものが混ざったナニカが儂を包んで、押しつぶされそうになったことは覚えている
暗くて、冷たくて、苦しく思った。とてもとても辛かった

そして、一筋の暖かい光が包み込んでくれたことを…
あの人が救ってくれたことを、よく覚えている



人とはいられない。気が付いた儂はあの人にそう言ってしまった
嘘だ、嘘だった、人とはいられないのではない
怖くなったのだ、怖いものだと思ってしまったのだ、人の事が
母様を殺した人間というものが、あの人の手を握れないほどに、怖くなった

それを伝えることさえ怖く思えた。儂は臆病になってしまった
あの人の顔さえも、見ることが出来ないほどに
心の中のあの人は、とても優しい顔をしているというのに

それから少しの間、一人で過ごした。孤独を感じながらも、一人で
人と触れ合えないということは寂しく思ったが、それ以上に怖さから抜けられなかったのだ
時々森の近くを通る人間に怯えながら、儂は日々を過ごしていたのであった



暫くして、あの人が近くに居る気配を感じた
その時の儂は、謝りたくて、どうしても謝りたくて
あの人に、ありがとうと伝えたくて
ごめんなさいを伝えたくて
怖かったのだと伝えたくて
勇気を振り絞ってここに来たのだと伝えたくて

あの人に会いに、行ったのだ


あの人は、横になっていて
声をかけても返事がなくて
寝ているのかと駆け寄っても、揺すっても返事がなくて
どんなに名前を呼んでも、何も答えなくて

とても、とても冷たくなっていて

嗚呼、手遅れなのだと、遅かったのだと、もう伝えられないのだと

気持ちが、抑えられなくて
涙が、止まらなくて、声をあげて泣いていたのであった


気付けば、儂の頬をあの人が撫でていて
今度こそ、手を握ることが出来たのだ
あの時、差し伸べられて握れなかったこの優しい手を
冷たくなってしまっているこの手を、やっと握ることが出来たのだ


最後に、伝わっただろうか
この儂の手の温もりは伝わったのだろうか
それを知る者はもういない。恩師であるあの人はもういないのだから



最後に、あの人の名前を書き記そう
いつまでも忘れないように、ここに書き記そう
彼の名前は季弘、陰陽師である安倍季弘である


私は、こんな大切な日々がいつまでも続くと思っていた 其の外
妖狐の記憶 That thought is not transmitted

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