「箱舟に乗れ?」

病院の一室、ベッドに横たわる彼は椅子に座る私にそう言った。
箱舟とは神によって絶滅に瀕した人類が安住の地にたどり着くための物だ。
現在建造中のそれに乗るのに必要な書類その他を彼の友人が手配してくれるという。

「そうですね。その為にもまずは元気に・・・」
「乗るのは君だけだよ、レア」
「・・・・・・何を」
言うのです、と続けられなかった。
「僕はもう長くない。医者からそう言われているんだろう?」
「・・・・・・」
今度こそ私は黙り込む。


彼と知り合う前、私は森の中に住んでいた。
街から遠く離れた様々な動植物が生息する自然豊かな森。
人間は稀にしかやってこないその場所で私と彼が出会ったのは、10年ほど前のある冬の日。

雪が積もる中、雑用の為に家――木のうろ加工したものだが――から出た私は、運悪く冬眠に失敗した熊と出くわした。
精霊や妖精に近い存在であり、森の加護を受ける小人の私は普段なら動物たちにちょっかいを出されることはないが、
飢餓状態の熊にとって私は飢えを凌ぎ命を繋ぐためのモノにしか見えていなかった。
必死で逃げる私は一か八か川に飛び込む事で熊から逃げることは出来たものの、小さな身体は容易に下流へと流されてしまった。
なんとか陸に上がる事は出来たが、冷たい水によって身体は冷え切り疲労で歩くこともままならなかった。

倒れていた私を助けてくれたのは、いまベッドの上から私を見つめている彼だ。
学者である彼は学術研究の為に森に入り、私を見つけると手厚く介抱してくれたのだ。
回復するまで間、彼は人間と人間が生み出したモノについて教えてくれた。
代わりに森について知っていることを教えたら、とても喜んでいたのを覚えている。
彼と仲良くなり、好奇心を抑えられなくなった私はお願いした。
「森の外に、人間の住む街に行きたい」と。

こうして彼との生活が始まった。
一人暮らしで家を空けることが多い彼は生活力に乏しく、私は家事を身に着ける事にした。
人間のサイズで作られたモノはどれも大きすぎて扱いにくいが、慣れと工夫によって苦ではなくなった。
今では家事は特技と言えるほどである。
私は彼の留守を預かり、時には一緒に連れて行ってもらったりして人間やそれ以外について色々な事を学んだ。
そんな平和で穏やかな日々は、彼が病に倒れることで終わりを告げた。


「人類は己が所業により滅びへと向かった。だが、だからといって大人しく滅びるわけにはいかない。たとえ相手が神であろうと」
「生きている者は存続のための努力をしなければならない。君は箱舟に乗ってそれを行うんだ」
私は俯いたまま何も言えない。彼は身を起こし私に手を伸ばすと、自分の近くへと引き寄せた。
私を愛おしむように優しく撫でる指に触れる。初めて出会ったあの日の力強く頼もしかった手は、死病によって細く弱弱しくなっていた。
「僕はついて行く事はできないだろう。だから僕は君に人類の未来を託す。箱舟に乗って生きるんだ。生き延びて、たどり着いた場所で、同じく生き延びた人たちと幸せになるんだ」


「あれが箱舟ですか・・・どちらかというと、人類を新天地へと運ぶ巨大な鳥のようですね。まぁ大分美化してようやく、ですけど」
港に浮かぶ巨大な鳥のような箱舟を見てそんな感想を抱く。
結局、彼は箱舟の完成待たずしてこの世を去ってしまった。
(僕は幸せ者だ。家族を失った僕は新たに君という家族を得る事が出来た。そして看取られて逝けるのだから)
(レア、僕の愛しい娘。困難に負けることがないように。君の行く先に光と幸いがありますように――)
そう最期に言い残して。

港には箱舟に乗るためにたくさんの人が集まっていた。
兄妹らしき男女や上流階級らしき高級なスーツを着ている人。銃や剣などで武装した人たちもいれば、翼や尻尾などを持つ亜人たちの姿も見受けられる。
やがて乗船が始まり、踏まれないように気を付けながらタラップを上っている最中にふと、昔彼が言った事を思い出した。
私の名前は、どこかの土地の言葉で「喜び・幸福」という意味があると。
私はきっと、彼にとっての幸いとなる事ができたと思う。これからは――

「新しく出会う人たちにとっての幸いに・・・・・・そうなりたいですね」

このページへのコメント

まあ、心配しなくてもみんな幸福になれるだろ、お前さんもな。

作成お疲れ様でした。

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Posted by 安藤竜 2016年09月14日(水) 21:02:03 返信

作成お疲れ様でした!
……レアさんのこの先に幸あらんことを

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Posted by ゾディー 2016年09月14日(水) 20:02:22 返信

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